仕事を終えた曹操が孟徳の部屋へ行くと、窓際の机に座った孟徳が何かを見つめていた。
目の前に置かれていたのは少し大きめの鉢で、その中を見つめている孟徳の表情はどこか楽しげだ。
程無くして気配に気づいたのか、孟徳が曹操の方に振り向く。
「来ていたのか」
「態々足を運んだというのに随分と冷たい言い草だな」
孟徳の態度が余程不満だったらしく、曹操はむっとした表情を隠しもしない。
「悪気があったわけじゃない」
「あったら今頃押し倒してるが?」
「何だそれは」
呆れ顔の孟徳を黙殺して、曹操は孟徳の手元の鉢を覗いた。
そこには水が張られており、2匹の小さな金魚が泳いでいる。
「これはどうした?」
「淵が、先日城下の祭りに行ってきた際に掬ってきたらしい」
孟徳の言葉に曹操は「ああ」と思い出したように合槌を打つ。
そう言えば先日、城下で祭りが行われていたと聞いたのを思い出したのだ。
「お前は行かなかったのか?」
「急な仕事が入ってな。まぁ仕方がない事だ」
だが、土産として貰った金魚が余程気に入ったらしく、孟徳の声に残念がる色は見えない。
「こんな小さな鉢に入れておくのも気の毒な気がするんだがな」
「ならば何れはどこかの川に放してやるのか?」
「それこそ気の毒だ」
「何故だ」
「こいつらは人の手が作り、人の手しか知らない。それを野に放つのは惨い事だ」
「―――それは…自分の事だと言いたいのか?」
曹操の言葉に孟徳は僅かに目を見開いた。
この器の金魚のように、狭い世界の中で生かされ続ける。
曹操の手からは決して逃れられず、何れは………
金魚が水を揺らがせる音だけが、静かな室内に響いた。
不意に、孟徳がふっと笑った。
その反応に曹操が驚く。
「そんなつもりで言った訳じゃない」
孟徳の視線が再び金魚に向けられる。
「大体俺は、お前に飼われてる訳じゃない…それに」
「それに?」
「俺たちから見ればこの鉢は狭いかもしれないが、こいつらにとってはそれ以上はないんだ」
周りがどう思おうが、その世界に在る者たちにとってはそれが世界のすべてなのだ。
そこで満足すれば満たされているし、幸せならばそれでいい。
それをなんだかんだと言うのはある意味高慢とも言える。
「それともお前はそう思っていたのか?」
「……いや、考えすぎだった」
「被害妄想もいいところだな」
「全くだ。どうかしていた」
苦笑すると、曹操も鉢の中を覗き込む。
対の金魚はじゃれあう様に水の中を無邪気に泳いでいる。
「それはともかく、この鉢は流石に狭くないか?」
「そうなんだが……」
ああは言ったものの、この現状の広さでは水が温みやすくなり、金魚を弱らせる結果になってしまうのが目に見える。
暫く考えて、曹操がふと顔を上げた。
「そう言えば……中庭の外れに小さな池があったな。あそこならいいと思うが」
その提案に孟徳も頷く。
小さい池だが、鉢に入れられておくよりは水も温む心配もなく、余程いい環境だろう。
「ならば早速行ってみるか」
金魚の入った鉢を抱えて、二人は溢さぬように気遣いながら庭へ出た。
庭に出ると、その端の方に水を湛えた小さな池があった。
ここは僅かだが水がわいており、渇水の心配も少ない。
孟徳は持ってきた鉢をそっと傾け、水と共に金魚を池へと流し入れた。
最初は戸惑っていた2匹だったが、やがて慣れたように池の辺を一頻り泳ぎ回った後に、連れ立つように池の深みへと消えていった。
それを見届けて、孟徳は立ち上がる。
空になった鉢を抱える姿はどこか寂しそうな気がして、曹操は髪を撫でた。
「何だ」
「別に?」
曹操の行動に怪訝そうな顔をしつつも、孟徳はそれを振り払おうとはしなかった。
たとえ果てがある世界だろうが
満たされていれば、それが幸せというのだろう。
了
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